5月末、母がお世話になっている特別養護老人ホームからお知らせが届きました。
「6月から予約なしで面会が可能になります」
コロナ騒動の直前、何とか一人暮らしをしていた母が近所に出ても家に戻れなくなり、民間の老人ホームに入ることになりました。
母を連れてそのホームの門をくぐって以来、6年近く会っていません。
その施設で1年程お世話になった後、特別養護老人ホームに移って現在は要介護4の状態です。
特養に移ることが決まった頃は厳戒態勢で、私が手続きに出向かなくて良いように両施設の方々が手配してくださいました。


父が亡くなり母が一人暮らしになったのは、母がちょうど今の私くらいの歳です。
障害を持つ父に付き添い、夫婦関係も荒れていた平坦ではない生活の終わり。
当時の私にはそれが母にとって解放だったように感じました。
人嫌いで誰に対しても言いたいことをはっきり言い、親しい人はいませんでした。
近所へ買い物、庭いじり、TVを観て、愛犬とも淡々とした関係‥そんな一人暮らしでした。
母が70代に入った頃、徐々に言動に違和感を感じ行政の力を借りるようになります。
私は家族と東京に引越した時期で、その後10年余り遠距離介護をする中で、母の認知症は現実になっていったのです。

私は幼いころから40代になるまで母との関係が最大のストレスでした。
生まれ変わったら一瞬でも関わりたくないと思っていました。
その母の介護で決めていたことは〝私主体でやる〟ということです。
自分にできる範囲で、辛くない方法で。
そのために使える手段を全力で探しました。
自分がこの先安寧に生きて行くために。
特養ではコロナの影響でしばらく面会できない状態が続きました。
その後、予約して10分間だけ面会可能になっても会いに行きたいとは思いませんでした。
その気持ちが少し変化し始めたのは2年ほど前からです。

時折り施設から郵送される〝施設サービス計画書〟
それを見ると身体機能・認知機能ともに症状が進んでいるのが分かります。
今は自分でご飯が食べられなくなり、意思の疎通ができないそうです。
私と会っても娘とはわからないでしょう。
6年前のあの日、まだ要介護1だった母は知らない場所に連れてこられて不安だったのでしょう。
自分の娘と思い込み孫に怒りをぶつけ、職員さんと間違えて私には遠慮気味に話す‥
その様子は、むき出しの本性とわずかな理性が交錯する状態でした。
そこに全く感情を乗せられない私自身の在り様が最後の記憶になって良いのか‥

1年間時々思い出しては迷った末、昨年末に子ども達と一緒に会いに行こうと思い施設に予約をしました。
ところが私が風邪を引いて結局中止に。
正直なところ心の奥でホッとしていました。
今回、私の離婚裁判が決着したタイミングで知らせを見た時、何故かスッと心が決まりました。
「会いに行こう」雨上がりの朝、ひとりで東京駅に向かいました。
新幹線、在来線2本を乗り継いで、施設は最寄り駅から25分ほどの山あいにあります。
タクシーもバスもない小さな駅から日傘をさして田舎道を歩いていきました。
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