このブログを始めたころ、「親の介護は鶴の恩返しなのか」と自問自答したことがあります。
介護に向き合う姿勢は、良きにつけ悪しきにつけ “人となり” が分かりやすく現れるような気がします。
そして介護を受ける側の在り方も、それまで生きてきた履歴書のようにその人を現すものです。
介護を負担する人が「自分はどうしたいか」(本音)は
介護を受ける側との関係が、それまでどうだったかによって違ってくるのかもしれません。
「何をすると良いと思うか」(理想)とは別次元のこと。
私の場合、実父は25年ほど前に亡くなっているので「介護=実母の介護」です。
実母のC子さんとの関係を介護の物差しで言い表すならば
“介護はタスク”
私は一人っ子なので、私だけがそれを背負う義務があります。
そして私の本音は「自分の手で介護を担う気はない」
「子の立場でできる範囲のことは負担し、できない事はプロに相談しお任せする。」
介護の義務を放棄するという事ではありません。
私には私の生活があり、家族があり、人生があります。
たとえその家族の形がイビツだったり、風前の灯火であったとしても。
親が認知症になると、それらすべてより優先されるという事は私にはありません。
これは誰かに推奨したいという事ではなく、私とC子さんの関係がそうだったという事です。
先日、C子さんについて振り返った私。
改めて自分の半生を考えました。
子供のころの記憶がポロポロぽろぽろと沸いては消えていきます。
満たされることのなかった自己肯定感。
それでも子供と言うものは、親の期待に応えたい、役に立ちたいと願うものです。
その時ふと私の心の中に小さなツルが現れました。
そして次の瞬間、気がついたのです。
あの頃のポヨツルは、すでに自分の羽を引き抜いて慣れない機織りをしていたのだということを。
介護は受ける側の事情に寄り添っていくことに違いありません。
でも担う側に視点を向けてみれば、風景は自ずと変わってきます。
「やるべきことは迅速にやり、できない事はプロに相談し判断する。
なりたい自分になるために、介護と向き合う。」
私にとって介護は、親と自分の関係を客観的に見つめなおすきっかけになり、
私自身が、子供のころの自分をいとおしく思ってあげられるようになった出来事でした。
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