健気なようで健気でない。

卒婚

私が家庭の主婦だった頃。

〝自分の役割〟と思って長年やってきたことがブツギをかもしたことがありました。

《毎朝5時に起きて車で相手方を駅まで送り、晩は深夜になっても駅まで迎えに行く》

そのためお酒も特別な時しか飲まなくなり、ずいぶん弱くなりました。

これは聞く人によっては嫌悪感すら抱かせるようなので、自分から話題にはしませんでした。

  

娘のポッペが友人と話していて話題が親の話になったとき、そのことを話すと大抵ドン引き。

一度だけ「ポッペママって、パパさんのこと本当に愛してるんだね!」と目をキラキラさせて言われたことがあったとか。

ポッペ
ポッペ

その子には真実を話す気になれなかったな~。

夢、壊すみたいで。

このことに限らず、母親だけが家事をする姿を見て育ったポッペ。

友人の父親が自分でYシャツをアイロンかけしている姿に驚愕したと言っていました。

一緒に料理を作るご夫婦や、名前を「~くん」「~ちゃん」と呼び合ったり。

ポッペ
ポッペ

なんかウチは昭和って言うかサ‥

波平とフネみたいで。

サザエさん一家のように明るく楽しいならいいけど。

ひたすら古いだけだったね。

  

そんな昔の話が出てきたのは〝モラハラ夫と妻の関係のいろいろ〟を話していた時でした。

例えば、「帰りが遅いのは、浮気をしているんじゃないかしら」と心配する妻とか、

話を聞かないことに対して「私の言い方が悪かったのかしら」と悩む妻とか、

どんな事をされても「きっと私のことは愛してくれているから」などと考えて耐える妻とか、

ポッペ
ポッペ

ポヨにはそういうとこ、全然なかったよね。

「きっと何か考えがあってやってることなのよ」とは聞いたことあるけど。

その姿は努めて冷静で、少なくともエモーショナルな波動は微塵も感じなかったと。

その通りでした。

それは〝理想の家族像〟へ向けた飽くなき執念のようなもの。

少なくとも「パパさんのこと本当に愛してるんだね!」という類のものではありませんでした。

  

私が紆余曲折しながらも続けてきた様々な妻としての〝私の役割〟。

ポッペやボーの目から見ても「本当によくやってきたよ」と。

不満を極力口に出さなかった姿は一見〝健気な努力〟に似ています。

ポッペ
ポッペ

ポヨのやってきたことは、確かにどれも健気なんだけど‥。

ポヨのやっている姿は、全っ然、健気ではないんだよね。

健気さ、ゼロ。

そう!ゼロ!

むしろ怒り。

普段日常的に感じる不満と、時折目の前にさらけ出される無理解。

そして底辺に流れる無関心というシグナル。

私のメンタルは自分のバイオリズムで上下しながら、事の本質に背を向けたまま希望を捨てませんでした。

健気と言えるなら、その部分だけかもしれません。

切望する〝幸せな家庭〟という目標には遥か及ばない日常。

そのそこかしこに感じる本質的なズレは、「〝いつか〟は、やってくるのか?」という苛立ちを生み、常に怒りを含んでいました。

家事も役割も、やりたくなければやめればよい。

もっともなことです。

やりたいか、やりたくないか。

私自身の欲望に正直に選択したならば、そこに不満は残らず満たされたでしょう。

  

反対に、理性で決めた順位は〝いつか〟のための優先事項。

そこに本質的なズレがあれば、所詮結果には結びつかなかったのです。

これは〝健気な努力〟とは全く異質の〝妄執〟だったのかもしれません。

  

  

  

  

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