はかなくも尊い、かけがえのない『私のしあわせ』

あれこれ

いつもの朝ならば早朝に配偶者が出勤し、私はその気配が消えてから起きるので朝のリビングは静かなのですが‥

AM6時。アラームで目が覚めると今朝はリビングでなにやらガサゴソと物音がしています。

まだ出かけてないのかな‥もう少し寝ていよう‥と5分後にアラームをセットして目を閉じました。

おぼろげに足音がパタパタと聞こえ、ベランダの窓を開けて空気を入れ替えているようです。

配偶者ではないな‥

ポッペは隣のベッドで寝ています。

これはボーが早起きしたのだとわかりました。

私も起きて布団をたたみ、リビングに入るとボーがパソコンを開いてコーヒーを飲んでいます。

おはよ、今朝は早いねぇ。ちゃんと眠れてる?

ボー
ボー

おはよう。昨日はエントリーシートの締め切り、ギリギリ間に合わせた。どっと疲れてよく眠れたから案外スッキリ起きれたよ。

就活は大変です。

私は身支度のため洗面所を独占し、ボーは朝ごはんのクロワッサンを食べ終えてお皿を洗って自室に戻っていきました。

私はいつも通り、サッと掃除をして、洗濯機を回し、乾いた室内干しの洗濯物を片付けます。

一通りの作業が終わると、まず一杯の白湯を飲んでから私もコーヒーを淹れます。

会社へ持っていく水筒用も一緒に作って、出勤まであと10分ほど。

しばし時が落ち着いて一杯のコーヒーを味わいます‥

飲み終えるとカップを洗って、仕事用のリュックの中身を点検し、マスクとスプリングコートを身につけて出勤です。

玄関で靴を履くと、ボーの部屋に小さな声で行ってきますと声をかけて玄関のドアを開けました。

ガタゴト‥とボーの部屋から物音が聞こえたなと思って振り向くと、部屋のドアから顔だけ出したボーが「行ってらっしゃい」と言ってくれました。

私は手を振って玄関ドアを閉め、胸いっぱいに優しい気持ちになりました。

ありがとう、見送ってくれて‥

マンションの階段を降りながら、遥か昔の記憶が甦ります。

まだ1歳になったばかりのボー。

ある日、私は抱き上げながら名前を呼び、胸に抱いて「だーいすき」と言いました。

その時、私の両肩にあったボーの小さな小さな手のひらがクルリと私の首の後ろに移動して、キューっと抱き寄せるようにしてくれたのです。

瞬間、私自身がこの幼いわが子に抱きしめられているように感じ、思いがけないほど感動しました。

何も言葉は話せなくても、幼い心に癒され励まされてどんなに嬉しかったことでしょう。

まだ1歳なのに!愛しているのは私だけじゃない、私はこの子から愛されている‥

あの清らかな幸福は年月が過ぎようとも色褪せることはありません。

20年以上前のこの思い出も今朝のしあわせも、出来事だけを見てみればごくありふれた日常のワンシーン。

  

世の中には『特別な待遇』や『有り余る財産』のように特権的な幸福というものもありますね。

もちろんそういうものも、得られるならば無いよりはしあわせなのかもしれません。

きっとその豊かさから得られる幸福も計り知れないのでしょう。

正直、私にもそういう事への憧れがあります。

「もっと自由につかえるお金がたくさん欲しいなぁ!」と、願い事を書くお守りの木札に自ら「お金持ち」と書いたほどです。

でも、こういうタイプのしあわせはそうそう手にできないですよね。

それにキリがありません。持てば持つほどもっと欲しくなるでしょう。

『自分が手にすることで得るしあわせ』のゴールは、自分で決めるしかないのです。

   

そんな俗世の煩悩まみれの私でも、今朝のようなささやかなしあわせを噛みしめて思わず涙ぐみそうになるのです。

若いときから「愛さえあれば、お金なんていらない」という言葉がピンとこなかった私。

お金があることもしあわせだし、愛も大切。

でも『愛』は『ある』からしあわせなのではなく『愛することができ、愛されるからしあわせ』なんじゃないかな‥言葉の綾かもしれないけれど。

自分自身がしあわせになること、それはエゴではなく自分の周りへ愛をそそぐことが出来るしあわせをいうのかもしれないな‥。

今朝の嬉しいできごとで『私のしあわせ』について考える日となりました。  

  

    

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