今月の始め、別居して1年経った気持ちを投稿しました。
別居すると決めたとき、私の前に運命の扉が現れたのだと。
でも、別居の先にどんな生活を送りたいのか‥
その直後の心境は別居と言っても〝別れて暮らす〟イメージでした。
相手方の実家には一人暮らしの舅がいます。
親に対する気持ちは人それぞれ、それまでの関係にもよります。
「心配に思うなら、実家に帰れば?」
口には出しませんでしたが、そんなことを思っていました。
自分の親は自分で見るって決めたじゃん、と。
娘のポッペが幼い頃に私の父が亡くなって以来、私の母親も実家で一人暮らしでした。
私も相手方も共に兄弟がありません。
お互いに片親を持つ身で、言ってみればイーブンなわけです。
私は舅と同居の経験があり、2度と同居しないと決めていました。
私の母親は徐々に認知症の症状が顕著になり、遠距離介護が必要になりました。
それをきっかけに、私はひとつの提案をします。
その頃まだ舅に介護の心配はありませんでした。
私の母親について関わらなくていいと思ったのか、相手方は二つ返事で同意しました。
それ以後、私は10年間相手方に一切相談をすることなく遠距離介護を続けたのです。
ここまで書いて改めて、私は既に相手方を信頼していなかったことを実感します。
相手方がまだ現役で働いていた頃、次第に舅も介護が必要になり私が連絡の窓口になっていた時期がありました。
その頃母親の遠距離介護が限界となり早急に民間施設への入所が必要になりました。
その時に一度だけ相手方が「何かすることがあったら言ってくれ」と言ってきたことがありましたが断りました。
「私は舅の面倒は見ない。だから母親に関しても一切関わらせない。」
そう強く思っていたことを覚えています。
施設に入所するときだけでなく、帰省するときはポッペが何度も同行して協力してくれました。
舅の介護に関する窓口係は、相手方が退職したと同時に返納しました。
何度も書いている通り 2021年1月、相手方が唐突に「ずっとここ(東京)に居るつもりか」と聞いてきたことが全ての発端です。
舅の介護を念頭に話ている‥と感じました。
私の実家は母親が施設に入って空家になっています。
相手方の実家まで車で1時間の距離。
私が東京を離れるとしたら、自分の実家に帰る以外ありえない‥
私は、慎重に言葉を選びました。
「何をきっかけにどこに行くの?」
それを聞いて相手方があの言葉を言ったのです。
「なら別居だな」
余裕の薄ら笑いで、あごを上げて横を向きながら‥
私の「そうだね」というひと言は、その顔に猫パンチをお見舞いしてやったのです。
沈黙が流れ、私が「でも、すぐってわけではないんでしょう?」と聞きました。
(まだ息子のボーが大学生だからすぐは無理)という意味です。
相手方は「うん」と答えました。
その時私は内心(よし!言質を取った!)と思ったことを覚えています。
相手方はきっと、それが意味することを理解できなかったんだと思います。
状況がよくわからない時に、いつも鳴き声のように発する「うん」という言葉。
その鳴き声が今回は相手方自身が「将来の別居」を承認した瞬間となったことに今でも気づいていないかもしれません。
私の中で将来の別居が現実となったとはいえ、ついさっきまで思ってもみなかったことです。
イメージは〝別れて暮らす〟という事から始まって、それから毎日考えるようになりました。
始めのうちは「相手方がこうすればいいのに」というような思考で、まだ自分の将来を相手方や環境が変わることに期待していたのです。
でも次第に「自分はどうしたいのか」と考えるようになり未来図は一気に明るくなっていきます。
そしてとうとう自分の考え方にケリがつく時がやってきました。
10ヵ月ほど経った2年前のちょうど今頃。
私は図らずも自分の真の願いを知ったのです。
それまで胸のずっと奥でくすぶっていた私自身が目を覚ましたのかもしれません。
この御神木に書いた大願は〝お金持ち〟を除いた3つが叶えられようとしています。
まだ道半ばとはいえゴールテープを目指しているのです。
かつて長い間人生に迷い、出口のないトンネルの中にいるように思っていた私には想像もできない未来が、今現実に目の前にあります。
この場所でこうして自由な生活が送れるのも、かつての自分が決めて来たいろいろな節目に導かれていると思えてなりません。
願っているうちは、まだ弱いような気がします。
こうする、これはしない、そう決めると不思議なもので自分の考えや行動がそうなるように働いていくのです。
その積み重ねが結果的に、自分の願いを叶えていくのではないかと‥。
「決めることで人は強くなる」
そう感じています。
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